日常の行為を瞑想的にする
Yogaha citta vrtti nirodahah ( ヨガスートラⅠ-2) 〜ヨーガはチッタ(心)の動きの止滅である
パタンジャリはヨガの目的を心の止滅と定義しています。そのために体を動かしたり呼吸法をやったり感覚を統御したり集中したり瞑想を体験します。そして悟りに至ります。と偉そうに書いてますが、悟りにもいろんな段階があって、私はまだその入り口をのぞいているくらいなんですが。。さておき、
本格的な瞑想は、周囲に邪魔されない瞑想的な場で、時間を気にすることなく、整った身体があってはじめてできるのだと思います。これは、とても特別な体験をもたらしてくれます。
でも、日常の生活でも行為を瞑想的にすることができます。
瞑想とは、瞑想という行為ではなく、瞑想という質のことです。
心(マインド)には動くし飽きっぽいので、手綱をつけて制御することは簡単ではありません。私の場合、頭の中には止まることなく次から次に言葉が浮かんできます。放置してたら、とめどない言葉の洪水!ひえ〜っ。映像が次から次に浮かんでくる人もいるでしょう。それを鎮める方法が、さまざまな瞑想法です。光や太陽や月など何かのイメージに集中する、一点を見つめ続ける、体を揺らし続ける、歌う、マントラを唱える・・・一生かかっても全部できないくらたくさんあります。
ではなぜ瞑想がよいのかというと、心が鎮まることでその奥にある、ほんとうの自分、その人の本質、ヨガでいうアートマン(真我)を知ることができるから。そして、日々の暮らしが生き生きと輝いてくるから。この世界に身体と心を持って生まれたことの至福を感じられるから。
さて、じゃあ何から始めたらいいのかしらん?となるのだけれど、あらゆる場面でできるのが、ひとつひとつの行為を習慣化しないこと!だと思います。
動く時には手足や体のどの部分がどう動くのか注意し、見るときには注意深く目をみはり、聴く時には注意深くその音に集中する。それを続けることで、おどろくほど短時間のうちに、草や木はひときわみずみずしく輝いて見え、かすかな音を感じ、聞こえてくる話のその奥にある意味を感じられるようになってくると思います。
いろんな行為を、慣れではなく、儀式にしてみる。そこから始めてみる。
そうすることで、すべての行為が祈りになってくるんじゃなかと思います。
祈りといえば、先月、お亡くなりになった『森のイスキア』の佐藤初女さんが、静かにお料理をする姿、おむすびをにぎる姿を思い出しました。
・・・言葉にできないほど美しいお姿でした。
※ いろんな瞑想方法をやってみたい方への参考本:
『オレンジ・ブック』〜パグワン・シュリ・ラジニーシの瞑想テクニック めるくまーる社
私は30年前に買って、ことあるごとに開いてるけどいまだにやってない方法満載!(苦笑)
インドでのティーチャートレーニングのときのプージャ(儀式)
マントラ唱えたり甘いもの(キョーレツに甘い!)を振る舞ってもらったり、手首に赤い糸を結んだり、水をかけたり、意味はよくわからなかったけど神聖な気持ちになってめっちゃ面白かった(笑
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